📺バタフライエフェクト-ダイエー中内とセゾン堤
2024/10/30
- 1970年代
- 商店街がダメージ
- 激安スーパーが誕生したため
- ダイエー
- 関西発
- 全国に拡大
- 中内
- 薬や雑貨の販売で創業
- 実家の薬屋で、1円でも安いものを求める客を見てきた
- アメリカ視察
- 価格決定権をメーカーから奪う
- 大量に仕入れて大幅な値引きを実現
- 不動産業
- ダイエーが店舗を出すとまわりの地下が上がった
- 店の担保価値も増えた
- 売上高1兆円を達成
- 堤誠二
- 西武百貨店
- 「おいしい生活」のキャッチコピー
- 堤の父
- 政治家で実業家
- 箱根などの開発で富を築く
- 西武グループをつくる
- 金もうけに走る父を冷ややかな目で見ていた
- 相続にも消極的
- 事業継承
- 堤の父の死後、本業は弟が継承
- 堤清二は西武百貨店を継承
- 中核ではない
- 池袋の西武百貨店は、銀座の百貨店より商品数が少ない
- 下駄ばき百貨店と呼ばれた
- 50億円の負債もあった
- 最上階で美術展を開き、巻き返しを狙う
- パルコ
- 1968年、渋谷に西武百貨店
- パルコを開業し、若者を呼び込む
- 東の西武、西のダイエー
- 1982年西武は売り上げ日本一になる
- 「東の西武、西のダイエー」と言われる
- ダイエー中内は堤をライバル視
- 堤は安売りだけのダイエーにいらだっていた
- バブル
- 1985年プラザ合意
- 円高で輸入企業が大打撃
- 政府は内需拡大を進め、日銀は利下げ
- 利ザヤが稼げなくなった銀行は貸出量を増やして稼ごうとする
- 株式や不動産にカネが流れる
- バブル景気につながる
- ダイエーの拡大
- ダイエーは海外進出をする
- 1988年には球団買収
- 病院の跡地に、新神戸オリエンタルシティを作る
- 巨大な施設だが駅から遠い
- ほんとにこんな大きな施設を作って大丈夫か、中内も心配になっている
- セゾンの拡大
- 「つかしん」というショッピングセンターを作る
- 堤の理想の町を実現
- リゾート開発も進める
- リゾート法が通り、自治体からリゾート案件が堤のところにやってくる
- もともとあるが気づいていなかった欲望を刺激するのはいいが、なかった欲望を無理やり刺激するのは危険ではないか、という考えが出てくる
- 平成
- 1989年、新しい元号は平成
- 1989年の年末38885円
- 1990年になってから株価は急落
- 1990年4月に、28000円台
- 1万円さげる
- しかし、ダイエーもセゾンも拡大
- 平成のダイエー
- 出店の足かせとなっていた大店法の見直しが行われる
- 株価下落で地価も下落していたが、ダイエーは出店を続ける
- 中堅スーパーの吸収合併を行い、全都道府県を制覇
- 1993年福岡ドーム完成
- しかし、1993年、売上が前年を下回る
- 1995年阪神淡路大震災
- 兵庫にあったダイエーの資産が影響を受ける
- 1000億円の内部留保は半分になる
- ダイエーの神戸撤退の噂を否定
- 平成のセゾン
- 高額商品が売れなくなる
- 西武百貨店の売り上げは半減
- つかしんは一度も黒字にならなかった
- リゾート開発で借りた融資を返せと銀行に言われる
- 金融機関の破綻が起こる
- 地下が下がる
- デフレ
- 2000年、個人資産100億円を返済にあてた
- ファミリーマートを伊藤忠に売却
- パルコを森トラストなどに売却
- SEIYUはウォルマート傘下に
- 2001年、セゾングループは消滅
- 堤インタビュー
- 2003年
- 経営から退いた
- 見誤った時点を特定するのは難しい
- 軌道修正もできなかった
- 調子がいいときは、余計にやってしまう
- 縮小化のことを知らなかった
- 中内
- 銀行から経営の健全化を求められていた
- 1999年には負債は3兆円に
- 土地の含み益は、2兆円から3000億円に
- 赤字店舗は次々と閉鎖
- モノが売れなくなっていた
- 安さだけでは売れなくなっていた
- 2001年、中内はダイエーから退いた
- 2005年、ダイエーは球団をソフトバンクに売却
- 球団売却から数か月後に中内は死去
- 個人資産はすべて差し押さえられていた